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赤津について
赤津地区は瀬戸市の南東部に位置します。最寄り駅の名鉄瀬戸線、尾張瀬戸駅からは4kmほど。中心市街地からはすこし離れた山あいにあり、のどかな風景が広がります。もともと赤津は、赤津村という独立した村でした。1925(大正14年)に瀬戸町と合併し、1929(昭和4)年の市制施工のタイミングで、当時の繁華街だった一帯を赤津町と名づけて、今に至ります。
歴史をさらに遡ると、戦国時代には合戦が激しくなり、陶工たちは山づたいに美濃(現在の岐阜県多治見市)へ。江戸時代になり、尾張の国ができると、初代・尾張藩主徳川義直が、旧・赤津村に加藤利右衛門(後の唐三郎)、仁兵衛の兄弟を赤津村に呼び戻し、保護されます。その後、尾張藩の御用窯となり、活気を取り戻していきました。
赤津町界隈には、今も加藤利右衛門(後の唐三郎)、仁兵衛の分家が多く、赤津焼をなりわいとする窯屋や陶芸家が多く暮らしています。近年では、新しい窯元が誕生したり、陶芸家などが移り住むひともすこしずつ増え始めています。
赤津焼とは
赤津焼の始まりは、奈良時代(700年頃)に焼かれていた須恵器という土器にまで遡ります。鎌倉時代に釉薬を用いたのは、日本のなかでもこの地方のみだったといわれています。その特徴は、織部釉、志野釉、黄瀬戸釉、古瀬戸釉、灰釉、御深井釉、鉄釉の7種類の伝統的な釉薬。そして、へら彫り、印花、櫛目、三島手など、12種類の多彩な装飾技法にあります。
江戸時代初期に、現在ある伝統的な技術・技法や名称が確立しました。尾張徳川家の御用窯として栄え、茶道具や生け花の道具、割烹食器で、手作りの高級品として、専門家に高く評価されています。
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